当日の記録

leaf 福島からの訴え(1)

(強制避難者・浪江町)

浪江町からここ郡山に避難しています。この場で発言させていただくことに感謝申し上げます。これから話すことは、私個人のことではありますが、おそらくたくさんの双葉地方からの避難者が同じ状況、同じ思いでいるものと考えています。

今、相馬市に家を建てており、今月末には引っ越しを予定しています。家を建てる、相馬に移る、それを決断するまでには、妻、両親、姉、さらには叔父・叔母、両親のお友達、様々な人と話し合い、時には、叱られもしながら、ぎりぎりでの決断でした。

この3年間、両親は、埼玉の姉の家のすぐ近くのアパートで避難生活を送ってきました。実の娘の近くにいても、やはり浪江が、福島が恋しいのでしょう。いつも、福島に戻りたいと言っていました。ともに80歳を超える両親の、特に父親の老いが急激に進んできました。この3年の時間の重みは、特に高齢者には重いものがありました。私は、埼玉で親が亡くなるということだけはさせたくありませんでした。私たちには時間もありませんでした。家を離れている子どもたちも、郡山の借り上げ住宅にはなかなか帰っては来ません。来ても、そもそも居場所がない、物がない、不便・・・何より、友達がいない。子どもたちが帰ってくる家もほしかったのです。

あと何年待ってくれ、時間を切って言われれば待てたかもしれません。昨年の4月に避難区域が再編されましたが、それは、自宅に戻れるという意味ではなく、新たな決断を迫るものでしかありませんでした。私たち双葉地方の住民にとっての、この3年は、復旧・復興が進んだ3年ではありません。負担をずっと抱え込み続け、それでも何とか見通しが持てるまでとがんばり続け、そして、帰れる見通しがなくなり、もう我慢にも限界がきたというのが、3年目を迎える私たちの思いです。

私の親戚、知り合いでも、家を建てたり、買ったり、アパートやマンションに移り住んだりすることが進んでいます。家の新築といえば、普通であればおめでたいことなのでしょう。でも、私たちにとっては、ふるさとを捨てることにつながる苦渋の選択であり、けっしておめでたいことではありません。

相馬に移ってからの近所付き合い、新しい職場、高齢の両親の介護など、不安なことはたくさんあります。また、子どもさんがいる家庭であれば、子どもにとっては大きなストレスが生じる転校がともないます。それでも、私たちはそう決断をしなくてはいけませんでした。そして、何とか顔をあげ、前を向いていかなくてはいけません。今後、同様に避難場所を変える人の多くが、こうした苦悩の中での移動となります。「風化」され「無関心」になっていくこともこわいのですが、逆に「好奇心」というものに対する恐怖感も持っています。私たちのほとんどが、避難先ではまぎれもない「よそ者」です。それを一番自覚しているのも私たちです。私たちは、これまでたくさんの方々から支援をいただきました。これからの必要な支援は、見守っていただくことなのかもしれません。ぜひ、引き続き、双葉地方からの避難者へ、温かい目を差し向けていただければと思います。私たちも、本当の意味での自立をめざし、がんばっていきます。ありがとうございました。

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