当日の記録

leaf 福島からの訴え(2)

(自主避難者・郡山市)

田村市から兵庫県に避難しました。兵庫県神埼町市川町という姫路市から20kmくらい北に位置する町に避難しています。中学2年生の娘と母子避難しました。夫は茨城県土浦市に単身赴任中です。

震災当時は郡山市に住んでいました。娘が小学校6年生になるところだったので、お友達と一緒に卒業を迎えたいという娘の意志を尊重し、震災後1年間は郡山市で過ごしました。中学校入学を機に、私の実家がある田村市船引町に引っ越しました。震災の年に私の実家の父が3度の手術をし、入退院を繰り返しました。そのとき、今までしっかりしていると思っていた母が、父の手術の際におろおろする姿を見て、一人っ子である私は、両親をおいて遠くに避難する踏ん切りがつきませんでした。

娘は震災の年の夏休みから保養に出していて、一番初めにお世話になったのが、真宗大谷派の方々が開いてくださった京都と兵庫での十日間の保養でした。この保養がきっかけで、長期の休みのときは、現在の避難先の神埼郡市川町にある真宗大谷派の高円寺さんにお世話になりました。私も冬休みには子どもたちを引率して行ったことがあります。昨年の春休みに、娘を一人で高円寺さんに保養に出しました。そこで、福島県内では体験できなくなってしまった山菜を採って食べることなど、自然とのふれあい、放射能について話し合えたこと、神戸でのデモに参加したことなどです。世界が広がったと言っていました。

これがきっかけで、娘と避難についてたくさん話し合い、私も、毎日毎日たくさん悩み、考え、活動し、避難することを決断しました。

両親はもちろん大切だけど、このままここに居続けたら、娘の被ばく量は蓄積されていく。娘には原発の責任はまったくない。親として私ができること、今最善のことは、ここから避難すること、守るべきものは娘の健康、命であり、その他の何ものでもない。私が健康であれば、どこにいても両親のもとへ駆けつけることはできる。
こうした思いに至ったことにより、避難の決断がつきました。

避難先では保養を開催してくれている高円寺さんをはじめとした、そのまわりの方々がいつも温かく見守ってくださっています。避難生活は、安全・安心な土地であることだけではなく、避難先の地域の方々の理解と心の寄り添いがなかったら続けていけません。娘は避難をして体もずいぶん健康になりました。福島県内にいたときは、心臓の痛み、肺の痛み、下痢などの症状があったのですが、今はそのような症状は訴えません。元気に生き生きと楽しく過ごしている娘の姿を見ていると、避難は間違いではなかったと思います。

間もなく、あの事故から3年を迎えますが、まだまだ原発事故の収束までは程遠く、危険な状態が続いています。福島県への帰還ばかりを優先するのではなく、避難したい人は避難させ、残りたい人は残るというふうに、個人に選択させるべきだし、自主避難した人のサポートもしっかりすべきだと思うのですが、復興ということばかりで、福島県民や子どもたちのことはまったく考えられていないように思います。本来なら、国策として子どもたちを被ばくから守るために、もうとっくに動いていていいと思うのですが、それがない今、福島県から避難した私たち避難者が原発事故避難者当事者として、日本の未来を担っていく宝物である子どもたちのために、避難先で動いていこうと思っています。子ども被災者支援法の現在の基本方針は、民意がまったく取り入れられておらず、納得できる内容ではありません。パブリックコメントで提出された民意をしっかりと反映させ、一日も早い復興を望みます。

←戻る 次へ→